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本日のネタとお知らせ


2009  5/30


生駒   Vol.005


はあ〜るば〜る来たぜ〜「函館」ではなっくって、「南田原」に。

皆様方御元気だったでしょうか、二日の御無沙汰でした。

南田原では田植えが始まりました。






















































































































無声写真でした、たぶん。



















2009  5/28

宝山寺 古参道   Vol.003

はあ〜るば〜る来たぜ〜「函館」ではなっくって、「辻子越え参道 その2」に。


先日、改めて辻子越え参道を歩いてきました。
前回の記事は、カツ丼食いたさに自白しちゃいますが、
8年前に徘徊した時のレポートでございます。

8年前の内閣掃除大臣は池田さんでしたか、はたまた吉田さん?
日麦安保で盛り上がった時代でしたな、いや、エンターフライズだったか?
まあ私にとっては昨日も8年前も大して変わりがないんですが、たぶん。

しかしながら、当然の如く、道は生き物ですから、
やっぱ、新鮮なレポートが必要ではないのかと言うことで、
温故知新でございます。


今回も経塚からのスタート、
のっけから荒れてるのなんのって、唖然騒然偶然、
これは、これはと、後ずさりするタケチャンマン。

まあ、いつものパターンで行ける所まで行くしか無い!

しかし、道なんか、当然ありまへんけど、
8年前は微かにあったんですが、

お手上げかタイガーズ、失礼いたしました、
混乱いたしました、タケチャンマンのまちがいです。

お手上げかタケチャンマン、ここで撤退したら戦わずしてマンツェスターWでんがな。
立て、立つんだ〜クリスティアーノ・タケチャンマン。

そんなわけで、どうにかこうにか歩いてきたんですが、
どうも、山崩れ部分は8年前とは違う道を歩いた?

自分が歩いた軌跡が道ですから、まともな道らしきになるのは30丁の手前部分から、
27丁の道標からすると、3丁300mばかしは山崩れで道も石畳も不明でした。

30丁から新道に出るまでは、割と石畳が残ってるのには驚きです。
大部分が落ち葉に隠れてますが。


大人数で山崩れ部分を調査すると、何か見つかるかもしれませんね。
あくまでもたとえですが、ハッキー選手が玉選手の頭近くにボールを投げて、
大乱闘になった時のボールが見つかるとか、あくまでもたとえでございます。














今回は下から、宝山寺からの順で写真を並べてみました。

宝山寺からケーブルを左手にみて上がり、右折すれば33丁。













皆さんもお馴染みの休憩所、このスグ上が旧道の入り口です;

気づく様で気づかない、微妙なる入り口。















皆さんもこのしっかりとした石垣に驚かれることでしょう、

そしてこの上に上がれば、その広さに二度ビックリされること受け合いでございます。
坪いくらなのか興味ありますね、

これからすると相当なる交通量があったことが想像されますが。

それも、ここには二段式に石垣が、二件の茶屋あったのか、











当時は茶店で賑わったんでしょうが。












自然崩壊











道がかろうじてあるのが、この上あたりまで。

これ以上先は、自由行動で各自27丁までと言うことで、南無阿弥陀仏でございます。

自然山道に慣れて無い人は、ここで諦めて元に戻りましょう。













経塚の下スグ、
相当の雨水が流れ込むのかえぐれてます、

なんか地獄への入り口の様な異様なるムードが快いのありませんか、たぶん。

どうですか皆さん、益々歩きたくなってきたのではありませんか。

こんな近くに、こんな素晴らしい廃道があったのかと驚かれることでしょう。
















2009  5/20


宝山寺 古参道   Vol.002

はあ〜るば〜る来たぜ〜「函館」ではなっくって、「辻子越え参道」に。

突然ですが皆さんは、生駒山上遊園地 駐車場の北にある経塚から、
宝山寺まで歩いたことありますか?

そうなんで〜す〜この道が、宝山寺への辻子越え参道なんです。
ゼンリの住宅地図にも載ってるんですね、知ってました、途中で途切れてますが。

今の皆さんが歩いてる、生駒山へのハイキングコース道の先輩にあたる道のようでございます。

昭和四年にケーブル線は生駒山上まで延長され、その頃に旧道からハイキング道にバトンタッチされたようです。
そして昭和16年頃に経塚の南側にての地滑りで、役割にトドメをさされたようです、南無阿弥陀仏でございます。

しかしながら大胆不敵にもゼンリさんが途中まで波線を描きこんでますので、
歩いてきました、もとい、もといでございます、徘徊して参りました。








ココがスタートです。

見て安心、触って安心の町石がご案内してくれます、たぶん、自己責任で。

道の全容を詳しく知りたい方は図書館で、「宝山寺への道 古道に残る信仰の文字  今井正弘著」 御覧ください。


時と場合により踏み後も無い場合は、諦める人は諦めて、
ココで諦めたら男(女)がすたると仰る人だけが前進してくださいませ。


最近はこの旧道の北側を宝山寺 奥の院へのハイキング道が完備されたようです。











所々に石畳跡が残ってます。













地滑り地帯を通過したと言うことなんでしょうか、













これぞ廃道歩きの醍醐味の石垣が、いやが上にもムードを盛り上げてくれます。

お休み所だったんでしょうか。











ニョキニョキの木々を眺めてると、流れた歳月を感じますね。

やがて宝山寺からのハイキング コースに出てきます、
出てこない時はスカですから、ティッシュペーパーをもらって帰りましょう。

ほんの短い区間ですが、旧道歩き好き、廃道好きには見逃せない道ですね。


生駒トンネルが開通して生駒駅が出来た大正三年までは、
たくさんの人がこの石垣を眺めて、宝山寺へと歩いたんですね。

ある一部の殿方は電車賃を節約して、はやる気持ちをしたためて、
石垣の上にある茶店で無駄使いせづに、
宝山寺参道沿いへと足を進めたのかもしれませんね、たぶん。


















2009  5/17


宝山寺古参道   Vol.001

はあ〜るば〜る来たぜ〜「函館」ではなっくって、「暗峠からの参道」に。

司会の民住党の代表の雀山でございます、
宇宙人ではなくって、民住党の代表の雀山でございます。
私の愛車はUFOではなくって、友愛号でございます、たぶん。



突然ですが皆さんは、暗峠から宝山寺へと歩いたことはあるでしょうか?
ラッキーガーデンで昼食とって宝山寺で参って、
生駒駅前で反省会という魑魅魍魎なる道ではなく。

禁酒してると噂されてる(ほんまかいな)中川昭二前財務・金融相のごとくの、
ストイックなる道、ひたすら山中を歩き宝山寺へと。
そうなんです、その昔は暗峠から宝山寺までの生駒山中歩き道があったようでございます。

私は「宝山寺への道 古道に残る信仰の 文字 今井正弘著」 で知りました。

その道を先日、私の生駒山の先生であるSさんとXメン(大阪の人)の二人で歩いたそうです。
正確に申しますと、薬師山鶴林寺跡・八大龍王薬師の滝から髪切峠(慈光院)までの区間を。
さらに正確に申しますと峯の薬師跡十三仏・うつぶせ地蔵からの先は、道では無いそうです、たぶん。

Xメンの先導で第二阪奈通気口の下を通って髪切峠まで辿り着いたようです。
道が無くってはウォームスのコースには無理ですな、
しかしながら、個人的には歩かないことには、死んでも死にきれない道でございます。

いつかは白いクラウンならぬ、
いつかは薬師山鶴林寺跡・八大龍王薬師の滝から髪切峠(髪切山慈光寺)までの道、歩きたいものです。

ここを御覧になっている人で、その道なら歩いたよと仰る人がいましたら、
元気良く手をあげてメールで御一報くださいまし。










暗峠に峠の地蔵 文永年間 の隣に道標が、










不動明王の種子、
北 鬼取山(元薬師)十二丁
宝山寺廿五丁
享保十七年(1732)











薬師山鶴林寺跡          右上に見えるのが下の道標でございます

髪切 十二丁ではありませんが















生駒山 宝山寺
東 小平尾 宝憧寺 北五丁

ここは空気を呼んでももらって、西 髪切 十二丁 にしてもらいたかったです、













見にくいの失礼いたします。

薬師山鶴林寺跡で1998年 3月撮影  ドコの新聞なのかは不明ですが、奈良新聞か奈良日日新聞の可能性が大と思われます。
このローカルな素晴らしきなる話題を、毎朝新聞が載っけるわけが無い、たぶん。

12世紀末と言えば鎌倉時代、薬師山鶴林寺跡に残る石垣を見ながら、あらぬ妄想に耽る私でございました。



丸ごと載っけるのはタブーではございますが、10年以上経ってますので時効ということで、
小沢二郎さんの秘書は一ヶ月弱で時効成るところを起訴されましたが、南無阿弥陀仏でございます。



後記  1997年 3月14日 読売新聞記載でした、ナヘツネの逆襲か!( 笑いでごまかす)
   














2009  5/13


笠間街道   Vol.002

はあ〜るば〜る来たぜ〜「函館」ではなっくって、「笠間峠」に。

司会の民住党の元代表の小沢二郎でございます、
東松建設並びに東京地検特査部にすっかりお世話になった、小沢二郎でございます。
まことに諸行無常でございます。



ウォームス三姉妹で赤目口から小雨降る深野、本降りの笠間峠へと歩いてきました、その2。


本日のコース
近鉄大阪線 赤目口駅−赤目町丈六−安部田−小屋出−鹿高神社− 鹿高−深野−神明神社
−笠間峠−旧笠間峠道(黒田坂)−坂之下−赤目町丈六−近鉄大阪線 赤目口駅











笠間峠は村の名でもある様です、そして、ここが文字通りの笠間峠のようです。

深野でなんと旧笠間峠道(自称)が現存すると知ってラッキー!

いつものパターンでとっくに廃道になってるかと信じきってましたから。














旧笠間峠道(黒田坂)の入り口です、上の道標から数歩でこのワンダーランドへの誘いへと。

スグに「東大寺二月堂のお水取り 松明調進の道」道標が、

思ったより快適な道で、けど、どんなけの人が歩くのか、
企画ものハイキングか、私達のような奇歩人変歩人ぐらいなもんでしょ。

それだけに道のお手入れ感謝、感謝、感謝でございます。













こちらの道標はそれなりのクラシカルなる年代物タイプ。

















坂之下へと下って参りました、奥の雨雲に煙る山々の中にに赤目四十八滝が眠っているのでしょうか。

小雨ですむのかなと思っていましたが、笠間峠にて本降り、坂之下ではジャジャン降りへと。

みなさんも深野、笠間峠どうでしょうか、コース的には色々ありますが、
東大寺二月堂のお水取り 松明調進の道」一生の想い出に歩いてみませんか、
33.3q歩いて平成の東京オリンピック(石源陳太郎もよろしくね)のアベベになれ〜たぶんね。


わたくし的には、こんなコースでどないでっしゃろ、   笠間街道ひとり旅   咲くのは花か石仏か
近鉄大阪線 赤目口駅−赤目町丈六−安部田−小屋出−鹿高神社− 鹿高−深野−神明神社
−笠間峠−上笠間−小原−多田−向淵−大野−近鉄大阪線 室生口大野駅
















2009  5/8

笠間街道   Vol.001

はあ〜るば〜る来たぜ〜「函館」ではなっくって、「深野」に。

司会の舛泰要二厚生労働大臣でございます、

ここの所、内閣掃除大臣の麻性太郎より目立っている、舛泰要二厚生労働大臣でございま。
秋の自分党総裁選よろしくね・・・

内閣掃除大臣の舛泰要二で小沢二郎(やってたら)の民住党を永久隔離じゃ!



ウォームス三姉妹で赤目口から小雨降る深野、本降りの笠間峠へと歩いてきました。


本日のコース
近鉄大阪線 赤目口駅−赤目町丈六−安部田−小屋出−鹿高神社− 鹿高−深野−神明神社
−笠間峠−旧笠間峠道(黒田坂)−坂之下−赤目町丈六−近鉄大阪線 赤目口駅










奈良県 宇陀市 室生区 深野

ウォームス三姉妹の精鋭部員二名の凛々しい後ろ姿のバックは赤目口、名張市でございます。


にほんの里100選に選ばれた「深野」に十年と四ヶ月ぶりに戻ってきました。

日本人はこのウン臭いなんたら100とか、なんたら百と言うのがホントに好きですね。

私も石仏百選やろうかな、毎朝新聞創刊四千周年記念とかなんとかで、たぶん。















この写真は翌日、ポン友のNさんと高見山へ行ったら落石で通行止めです〜と言われて、
ジャンジャン降りの曽爾高原で雨宿り昼食して、毛原廃寺でコーヒータイム(雨が止んでました)して、
帰り道ですから寄って来ましょうで、
またまたジャンジャン降りの深野で傘さしてこの写真を撮ってます、ホンマ。

連日連夜の雨三昧、雨も滴るいい里「深野」

この後、雲がモクモクとココ深野へと湧き上がって真っ白け〜になりました。












たまりませんな、この眺め。
















車で行っても面白くもなんともありませんので、できれば赤目口から旧笠間峠道(黒田坂)を登るのがグッド、

ハイパー歩け歩け会系の方は、そのまま引き続き「松明調進の道」にて東大寺へとどうぞ、私はかんべえな〜


明日は笠間峠の巻でございます。





















2009  5/6


南山城   Vol.002

前回の続き、南山城を訪ねて。

はあ〜るば〜る来たぜ〜「函館」ではなっくって、「撰原の阿弥陀石仏」に。

始めて訪れた時は夕暮れ迫る中、加茂駅からトボトボと歩いて訪ねた撰原。









京都府 和束町 撰原 撰原峠子安地蔵尊 文永四年(1267)

始めて訪れた時は夕暮れ迫る中、加茂駅からトボトボと歩いて訪ねた撰原。

この地蔵さん逢いたさにやって来た撰原。














京都府 和束町 撰原      阿弥陀石仏  鎌倉時代   中央の岩に側面写真ですが!


して今回は、阿弥陀石仏に逢いにやって参りました。

















うつぶせ阿弥陀状態になっています。

後ろ木の成長により、コウベを垂れる阿弥陀かな状態。

















この前は旧道に成っていた様な、今は誰も来ないままに、

撰原のバス停から上がって左へとカーブする道の下に。

700年ばかし毎日、まいにち、マイニチ、道に積もる枯れ葉を眺めて、

こんなに大きく(小さい)育ったのでしょうか、たぶん。









前へと参ります




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